○10月10日、月曜日の朝、
『子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。』
論語学而篇一
「孔子はいわれた、
ものごとを学びて、時に応じて学んだことをまた習う。
心の底から嬉しさが込み上がる。
同じ志、学問の道を目指す友が、遠方より来たる。
心の底から嬉しさが込み上げる。
世間の人が、己を認めないことを憤ることも無い。
君子とはこのような人を言う。」
最近、思う。
学ぶ、ということに終わりはなく、この章句とは論語の総論だ。
孔夫子は忠恕を説かれ、仁徳によりこの世の中を、苦しむ人を救おうとされた。
だからこそ、私たちは学ぶのだ。
大きな仁の下で、生ある限り学び続けることが孔夫子の説かれた道なのだ。
○月曜日の夜、
子供の頃から、原因不明で背中の心臓辺りが重くなることがあり、よく母が両手の掌で擦ってくれた。
不思議と母がさすると数分で重たさが消える。
大人になってからは妻にお願いしているが、不思議と直ぐには効かない。
十分くらい擦ってもらうと楽になる。
この前、子に擦ってもらったら、不思議と数分で心臓の後ろの重たさが消えた。
同じ血が流れているせいだろうか、不思議だ。
この背中の重たさ、別に心臓も悪くなく、病気もない。
どうやら精神的なものかも知れない。
ピンチの時や、臨戦態勢の時は症状が出たことはない。
別に、妻に擦ってもらうと治るので心療内科にいくつもりもないが、
思春期の頃、ちょうど中学生の頃から、ふと気の抜けた時に起こるので、ひょっとしたら鬱かも知れないな、と最近思う。
ただ、別の方法もある。
子の小さい頃の積み木を捨てずに置いてあり、仰向けにねて下に積み木を置いて圧迫する。
これが、以外と効果がある。
心臓辺りの重いところから、背骨にそって肩まで、自重でかなり強く圧迫すると、スーっと重たさやモヤモヤが消える。
筋肉指圧で消える鬱などきいたことはないので、ひょっとしたら鬱ではないかも知れない。
省みれば自他ともに猪突猛進、人として単純で在りたいと思い、この歳まで生きてきたが、
実は意外と繊細であり、心細やかで人の機敏がよく理解できる苦労人なのかも知れない、と自ら褒めてみたがどうなのだろうか。
今度、親友でもある妻や、田舎のN、或いはKさん辺りに聞いてみるとしよう。
○火曜日の夜、
学問が捗らない、資格勉強も過去問を開く気にならない。
スランプらしい。
ここで、逃げても良いが、辛うじて過去問のページを開く。
さあ、今夜も眠たくなるまで勉強だ。
○水曜日の夕方、
仕事が忙しいと機嫌が悪くなる。
われながら如何ともし難い。
二〜三手先まで読んで、鼻歌を歌いながら余裕綽々で仕事をするスタイルが好きだ。
忙しいのは構わないが、間違っても今日のように、必死に仕事をするのは好きではない。
当然、お決まりのイレギュラーは、こういう時に頻繁に発生する。
まあ、これは想定内だ。
繁忙期こそ、日頃埋もれていたイレギュラーが浮かび上がるもの。
地力でどんどん潰していくし、駄目なものは根本からやり直す。
省みれば、何故、家路についた通勤電車の中でも不機嫌を引きずっているのか。
①繁忙期の対策を過信した自分自身に腹が立つ。
②確実な仕事がモットーなのに、少しでもリスキーな要素が含まれた過程が気に入らない。
仕事とはスマートであるべきだし、不確定要素は最初からオープンにして臨機応変に対応すべきだ。
要は、私が職場を預かるマネージャーとしては間抜けということか。
今日は他人のせいにしなかったくらいしか評価出来るところがない。残念だ、帰ろう。
○水曜日の夜、
さて今夜も寝るまで資格勉強へ。
必然的に儒学の勉強時間が減る。
通勤往復二時間を、論語の章句を自由律で述べる以外に振り分けていない。
朝、少し早く起きて四書の素読の時間を設けよう。
目的は儒学にあり、目標は資格取得にある。
主がぶれてはいけない。
学問の道とは、経書を学ぶことにに限らない。
目的が仁であれば、資格勉強という行動も立派な仁であると信じている。
○木曜日の朝、
何事にも大雑把故に、朝、鼻炎の薬であろうと適当に飲んでいた薬をググると全く違う病気の薬だと気付く。
病弱故に、薬局で処方された訳のわからない名前の薬が自室の棚に大量にあり、捨てるのも勿体ない、薬は薬だ、と呑みすぎの時も適当に飲んでいる。
何となく効くので不思議なものだ。
○木曜日の夕方、
天は孔夫子をして世の中を「已んぬるかな」(どうしようもない)と言わしめた(公冶長篇二十七)
儒家とは現実を正しく認識する。
まさに「已んぬるかな」と思う時が今の世でも度々ある。
しかし、だからこそ、儒家とは自らの徳を広げ、周囲に徳を及ぼし、仁=天と心を同じくして世の中を良くしようとするのだ。
○金曜日の朝、
若い人でチャラチャラしているのを見ると、イライラがくる。
今朝も、ホームの椅子で大きく脚を広げて座り、両手はポケットの中、度々舌打ちしている。
意味がわかっているのだろうか、貴方の不愉快が周りに駄々漏れしている。
地が短気なので思わず睨みつけたら、何処かへ行った。
と、、いけない、自称ヤングだ、昭和のカミナリ親父に居場所はない。
次からは大人しくしよう。
○金曜日の朝、
電車内で会話(ディスり合い)をする二人組が、いつもと同じ位置と時間に横に立つ。
・午後3時からの会議について、出席資格があることをさり気なく自慢している。
・ついで、話しは高価な靴を買ったとの自慢で応酬。
・さらに行きつけの高級ジム自慢で反撃。
毎朝聞いている。楽しみだ。
○金曜日の昼、
最近、自分の中で春秋左氏伝がいぶし銀のきらめきを放っている。
なんとなく、儒学抜きに面白い。
小説の銀河英雄伝説の様に読んでいる。
テキスト的には、平凡社版は現代語訳のみなので本来とは異なるかも知れない。
明治書院版が欲しいがやはり高い。
銀河英雄伝説に登場するヨブ・トリューニヒトという政治家の恐ろしさとは、明らかに国を滅亡へと誘う政策でも自らの権力を強化出来るのであれば躊躇なく「正義」を行使出来ることにある。
ここで現実に省みれば、世襲が当たり前となったこの国の政治家一族も、権力継承の「正義」を唱えてこの国の政治を握っている。私たちはこの恐ろしさに鈍くなっている。
ある意味、隣国の独裁者と何が違うというのだろう。
明治維新のち二度の大戦を経て、彼らは富み栄え、一族は常に国会議員、大臣、首相、政治の中枢に居続けている。
選挙が形骸化しているのは衆知ながらもマスコミは沈黙し、国会議員の世襲率は五割を越えた。
目糞鼻糞を笑う。
学問を学べば学ぶほど気付く。
世の中の腐臭だ。
また、昨今のポピュリストの台頭は新風ではない。
むしろ危険な臭いに満ちている。
世界史を、近現代史を読めば先例に事欠かない。
大きなことから変えるのは難しい。
故に、孔夫子の教えが見直されるべきではないか。
「忠恕」、心を誠にして他人を思いやること。
小さなことからこの国を変えるのだ。
しかし、日々、論語の章句を意訳する間に考えを改めた。
中庸を欠く易姓革命では論理的にも継続性に欠ける。
「根本」を養うに欠いた思想とは浅はかなものだ。
そもそも孟子とは浅いものではない。
大きな仁を説いた。
私の学問が浅いだけだ。
最近、孟子を読んでいて思う。
孟子の本質とは、「浩然の気」にあるのではないか。
天地に満ちる浩然の気と一つになること、仁と義を、自らに、常に充満させること。
大きな、大きな仁に包まれていると自覚する。
そして、自らの仁を大きく、大きく広げる。
やがては、天とか道に達するのだ。
○土曜日の夕方、
キック・パスの練習のち、二人で大グラウンドを走る。
少し、追いつくのがしんどくなってきた。
休憩のち形意拳の練習。
開式、三体式、後に崩拳は、弓を引くイメージで引き、槍を突くイメージで打拳することを重ねて教える。
ピョコピョコの上下が無くなる。腰の位置が安定しだした。
呼吸法は、まだまだ。
身体、心、呼吸全てを一つにさせることを繰り返し教えた。
開式と三体式こそ形意拳の真髄であり、正しく鍛錬を重ね、自ら変化に気付くのが本来の姿だ。
解答を教えるのが良い師とは限らない。少なくとも私はそう教わる。
省みれば、今学んでいる儒学と相通じる。
経典を、論語を学び、自ら考えることは三体式と等しい。
地力を自ら養うことこそ王道なのだろう。
あとがき)
■読書の秋
春秋左氏伝、昭公編に、
「礼といえば、それは天の道、地の義、人の行いである。」
礼とは、なんと深いのだろうか。
資格勉強をうっちゃって夢中で読んでいる。
■日記・雑記
諸事情があり、2話にて終了します。