書き下し文)
孟子曰く、
自ら暴なう者は、与に言うあるべからざるなり。
自ら棄つる者は、与に為すあるべからざるなり。
言、礼義を非る、これを自暴と謂う。
吾が身、仁に居り義に由る能わざる、これを自棄と謂う。
仁は人の安宅なり。
義は人の正路なり。
安宅を曠しくして居らず。
正路を舎てて由らず。哀しきかな。
孟子 離婁章句
意訳)
孟子がいわれた。
自ら、徳なき乱暴なふるまいをする人とは、語るべき言葉を持たない。
自ら、徳を放棄するようなふるまいをする人とは、ともになにかを行動することは出来ない。
言葉を発するたびに、
礼(人としてのあり方として修練されるべき規範)を、
否定すること、これを自暴という。
仁(人の不幸を見過ごせないあわれみの心)を持って、
道(自分の不善を恥じ、不善を憎む心)に従った行いを、
否定すること、これを自棄という。
仁(人の不幸を見過ごせないあわれみの心)とは、人間が安楽に住める家であり、
義(自分の不善を恥じ、不善を憎む心)とは、
人間が歩くべき正しい道なのだ。
仁の安らかな家に寄りつこうとせず、
正しい道を捨去り、欲望に身を任せ、心の拠り所を持たない、
人として、何と哀しいことであろうか。
所感)
■仁の奥深さ
人は、大なり小なり、己が生まれ育ち、年齢、環境により、自暴自棄な一面を持つことは否定出来ない。
しかし、本来、産まれた時から備わる、当たり前の気持ち、心は、常に我が身に備わっており、
本来の、自分自身の持つ、心、徳のことを思い出せば、いつでも仁と義の我が家に戻ることが出来るのだ。
と、本文の直接的な意味とは若干、解釈が異なるが、私には、その意味するところは、仁の奥深さ、優しさを述べているように感じる。
新約聖書にある、放蕩息子のたとえ話しも思い出す。
■学問の気づき
経書を学び始めた当初の自分であれば、より厳しい見方、考え方で、仁と義の徳を否定するやからは、救う価値もない外道である、と、切り捨てた所感を述べたと思うが、
繰り返し経書を通読し、自分なりに考え、学問をすすめるうちに、
儒学とは、仁の徳とは、そんな小さなものではないと、気づきはじめた。
そもそも、自分が儒学を学ぼうと思ったきっかけは、儒学の底の深さ、広さ、優しさに気づいたからだ。
この章を勉強して感じた気づきを、学問の進歩というのか、あるいは、独学故に横道にそれて行ってしまったのか、自分では正直、判断がつかないが、さらに、学問を押し進めようと思う。