書き下し文)
孟子曰、人を存るには眸子より良きはなし。
眸子はその悪を奄うこと能わず。
胸中正しければ眸子も瞭らかに、胸中正からざれば眸子も眊し。
その言を聴きて、その眸子を観れば、人なんぞ廋さんや。
離婁章句上
意訳)
孟子はいわれた。
人に存るもので、瞳ほど人をあらわしているものはない。
瞳は、人の悪を覆い隠せない。
胸のうちが正しいと、瞳は澄んでいる。
胸のうちが正しくないと、瞳は濁っている。
言葉を聴き、瞳を見れば、人が隠せることなし。
所感)
■孟子の教え
この章は孟子の教えとしては、比較的に有名であり、述べていることもわかりやすい。
瞳を見て、言葉を聞けば、人に隠せることなどないとの主旨。
しかし、わかりやすいから、と表面上の意味で終わってしまうと、せっかくの孟子の教えを、ことわざ程度で終わらしかねない。
孟子は、読んで読むほど味が出るもの。
■最初の瞳
私事であるが、私が小学生の頃、父より受けた訓練がある。
父と子、互いに瞳を見つめ、反らしたら負けのルール。
父の瞳はやや茶色がかっていて、落ち着いた光を放つ。
途中飽きてしまった私は、何度も瞳から目線を反らし負け。
ある日、コツを見出す。父の瞳に写る自分の顔を見ること。
しばらくして、この訓練は終わる。
以降、私は人と向き合って話す時は、相手の瞳から目を反らさない。
もちろん、相手の心理状態を配慮してわざと反らす場合はままある。
小学生の長男にも、当然ながら訓練を行った。
長男の瞳はやや黒みがかった茶色。
私の目を見つめさせ、動じなくなるまで訓練を続けた。
■様々な瞳
今まで様々な人の瞳を見てきた。
妻の瞳は、全体的に黒っぽいクリクリした感じ。
学生時代にお世話になった直属の師範の瞳は、青い色をしていた。
前職の直属の上司の瞳は、くすんだ茶色。
同僚、先輩、後輩、友人たちも、それぞれの瞳。
顔を思い出せば、瞳も思い出す。
ここで一つ気づく。
私は母や兄妹の瞳をまじまじと見た記憶がない。
おそらく、瞳を見るとはそういうことなのだろう。普通、自分の瞳はまじまじとは見ない。
■瞳の検証
瞳とは、確かにその人らしさを顕わしているが、赤の他人であれば、それこそ生き死にのレベルでないとその違いに気づくのは難しい。
日常生活で出会う人の瞳とは、例えば仕事上では冷酷非情であっても家庭では良き夫であったり、
仕事場では良き人が家庭ではDVを振る犯罪者であったり、正直、確実性にかける。
おそらく、孟子の時代の話しなので、生き死に直結するレベルの話しではないか。
あるいは、浩然の気といい、仁と義の徳を積み上げた人であれば、普通の人ではない、なにか別の判断能力が備わるのであろうか。
■瞳の系譜
自分の瞳が、澄んでいるかどうかは正直わからない。
ただ、子供の時に見た父の瞳は澄んでいたように思う。
我が子が見た私の瞳が、澄んでいるかどうかは正直わからない。
ただ、親が子を思う気持ちが仁、子が親を思う気持ちが孝であれば、自然、共に澄み渡るであろうと思う。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。