現代語直訳)
人が、師になりたいとの欲がでれば、学んだことは己の身にはつかない。
得た幅広い知識は、ただ人に使われるのみ。
このような人に使われるだけの学問は、学者の常の患いであり、自ら戒めなければならない。
学問を成し遂げる眼目は、己の為にすることにあり。
君子の学問は、己の為に学ぶ。
小人の学問は、他人の為に学ぶ。
己が為の学問とは、人の師となるを好まなくとも、既に人の師となっている。
他人の為の学問とは、人の師となりたい欲を思うも、終には人の師となるに足らない。
故に、孟子はいわれた。
「記聞の学は以て師となるに足らず」
(知識のみの学問では人の師に足らず)
第二十三章
以上を含む第二十一章から二十三章までの三章の要旨は、
人の、ほめたりけなしたりを助けとせず、己の学問を修め、実を成し、
言葉を容易に発せず、実行を以って自らの責任とし、
人の師となるを好まず、己の為にする実学を修めよ。
意は、並びてよく似ている。
皆、己を修め、実を務めよとの教えなり。
所感)
■学問の道
現代教育が望む着地点との差は大きい。
「受験勉強に励み、名門大学に進学し、上場企業へ入社し、役職を目指し、富裕層としての贅沢な生活を楽しみ、子も高度な教育を受けさせよう、、、」
講孟剳記を後の世に遺された吉田松陰先生が、令和の世をご覧になれば、どのようなことを申されるのであろうか。
最後の三章のまとめを、逆に述べれば、現代の日本人そのものか。
ほめたりけなしたりを助けとし、
言葉を容易に発し、責任は持たず、
人から、師として崇めたてまつられたい、
現代には徳は無く、仁も義も礼も知も、皆ぬけ殻の様になっているのか、、、
否、ではないと、信じる。
だからこそ、今、現代で、儒学は必要とされていると、信じる。
同じ時代に、共に儒学を学ぶ諸先輩方も、同じ思いであるとも、信じる。
私たちは、東洋のドン・キホーテでは決してない。
儒学とは、時代を超えて、ものごとを正しく認識する学問。
もちろん現状は認める。
だからこそ、儒学の徒を目指し、己を磨き上げる為に学問の道を志した。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。