書き下し文)
孟子曰く、
貴きを欲するは、人の同じき心なり。
人人己に貴き者有り、思わざるのみ。
人の貴くする所の者は、良貴に非ざるなり。
趙孟の貴くする所は、趙孟能く之を賤しくす。
詩に云う、
『既に醉うに酒を以てし、既に飽くに德を以てす。』
仁義に飽くを言うなり。
人の膏粱の味を願わざる所以なり。
令聞廣譽、身に施く。人の文繡を願わざる所以なり。
告子章句上
意訳)
孟子はいわれた。
貴くなりたいとは、人であれば皆思うこと。
本当は人であれば皆、貴いものが有る。
しかし人は貴いものを、思うことなし。
人が人によって貴くなるものは、良き貴さでなし。
大貴族、趙孟により貴くなれば、
大貴族、趙孟により貶められる。
詩経に言う、
「酒をいただき、心地よく酔ってしまった。
徳をいただき、心地よく飽いてしまった。」
心地よく飽いてしまった徳とは仁義のこと。
仁義に満たされれば、脂の乗った肉を願うこともなし。
世の評判をその身に施され、文繍(立派な服)を願うこともなし。
所感)
■貴さとは
この章で孟子は二つの貴さを述べられた。
一つは、人が人によって得た貴さ。
間接的には地位や名誉、権力、財産、他人と比べて得られる貴さ。
直接的にはきれいな服や美味しいご馳走、
見て、嗅いで、聞いて、触って、食べて、得られる貴さ。
もう一つは、自らの心により得た貴さ。
仁の徳とは、人の不幸を見過ごせないあわれみの心。
両親思う気持ち、思いやりの心、敬いの心は仁となる。
義の徳とは、自分の不善を恥じ、不善を憎む心。
善いことを行なわないことを、恥じと思い、憎む心。
■私たち現代日本人の思う貴さと未来
人が人によって貴くなるものとは、地位や名誉、権力、財産等、他人と比べられて得られる貴さ、=一般的な幸せであり、
今の社会とは、これらを実現する為に、幼き頃より勉強に勤しみ、他人を蹴落とせと否応なく自覚させられる。
蹴落とされた人びとは、地位も名誉、財産、権力もなく、人に使われる人生で貧困の内に一生を終え、その子孫も教育レベルの低さから親に続く。
方や、勝組みとなった成功者は、ますます富み、地位も名誉、財産を手に入れ、高度な教育を子に行い、子孫も親に続く。
■儒学とはものごとを正しく認識する学問
だからこその儒学であり、孟子が再び日本で脚光を浴びる日々が戻ってきたのではないか。
国が困難な状況となり、弱き者が苦しめられ、一部の者が富と権力を世襲する。
孔子、孟子が嘆かれた時代から、二千三百年の間、徳が失われ、民衆が苦しむ度に孟子は脚光を浴びた。
今の私たち日本人の多くは、他国と比べ自分たちが幸せだと思っているし、事実そうであるかも知れないが、弱き者が苦しんでいる事実は変わらない。
■学問の道
仁とは、人の不幸を見過ごせないあわれみの心。
両親思う気持ち、思いやりの心、敬いの心は仁となる。
義とは、自分の不善を恥じ、不善を憎む心。
善いことを行なわないことを、恥じと思い、憎む心が義となる。
何一つ、過激なところなどない。儒学とは、なんと真実を明らかする学問ではないか。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。