書き下し文)
敢えて問う。
夫子悪にか長ぜる。
曰く、我言を知る。
我善く吾が浩然の気を養うと。
敢えて問う、何をか浩然の気と謂う。
曰く、言い難し。
その気たるや、至大至剛、直を以て養いて害なうことなければ、則ち天地の間に塞ちる。
その気たるや、義と道とに配す。
是なければ餒うるなり。
是れ義に集まって生ずる所の者にして、義襲いてこれを取れるに非ざるなり。
行い心に慊ざるあれば、則ち餒う。
我故に、告子は未だ嘗て義を知らずと曰えるは、そのこれを外にせるを以てなり。
孟子 公孫丑章句上
意訳)
先生にとって、ご自分が、他の人より秀でている点があると、お考えのことがあれば、是非ともを教えて下さい。
私は、他人の言葉を聴けば、言葉の内容だけではなく、その人の欲することや、その人の本質を含めて、おおよそ把握することができる。
そのためにも、私は、日ごろから、浩然の気を育て、養っているのだ。
それならば、その、浩然の気とは、どのようなものか、教えて下さい。
浩然の気を持たぬものに、内容を説明することは難しいのだが、あえて述べてみよう。
浩然の気とは、
果てしなく大きく、世の中で、最高に強いものであり、
なにかに影響を受けて、折れ、曲がることなど微塵もない、
まっすぐに育て、養っていけば、天と地の間に、あまた知れず、満ち満ちるものだ。
また、浩然の気とは、
君子として生きる日常生活に於いて、
義(自分の不善を恥じ、不善を憎む心)
と、
道(両親や兄にに接する時に誰もが抱く、尊び、敬う気持ち。日常の生活のどこにでも存在する当たり前のこと)
から決して離れることがないものだ。
もし、浩然の気を、義と道から離せば、浩然の気は、またたく間に無くなってしまうものだ。
浩然の気とは、
義(自分の不善を恥じ、不善を憎む心)を日ごろから思い、実践し、長年、積み重ねてから、後に生じるもの言ってよい。
義(自分の不善を恥じ、不善を憎む心)を少しでも行えば、またたく間に、浩然の気が、人に生じるといったものでは、決してない。
故に、もし、人の思い、行いが、義(自分の不善を恥じ、不善を憎む心)と隔たるようなこととなり、
自らの心を、義の思い、行いによって充足させれず、
自らの義の積み重ねが止まってしまえば、
浩然の気は、またたく間にその人から無くなってしまう。
私が、告子が、義をまったく理解していないと思う理由は、彼の思う義とは、心の外に存在するものである、と、その言動に現れているからだ。
所感)
■孟子を仰ぎ見る
義に対する、孟子の考え、
命がけで、義を貫き通す姿勢、生き方に接し、
厳寒の山脈の頂きを仰ぎ見るような思いを抱く。
自らを律する厳しさを、日々積み重ねていくこともまた、大きな仁なのであろうか。
一初学者の、浅はかなコメントなど、書けるものではない。
ただ、繰り返し、繰り返し、読み返し、書き写し、考え、理解を深めたいと思う。