四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩No.152〘後半〙(顔淵第十二②)

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○水曜日の夜、自宅

 

❖ 偽りの仮面

 

「偽善でも、公正無私であればそれは善だ、悪人でも善にはなれる」

 

「多くの場合、偽善とは私利私欲の隠れ蓑に過ぎない、私+たち、我+われと複数形を用いる人を、私は一つまみも信用しない」

 

「貴方はそこにはいないと知っているからだ、薄っぺらい偽善とは、なんと醜いのだろう」

 

#三行詩

 

❖ 人間の物語

 

「偽善者、嘘つき、卑怯者、三者一様ながらも許せざる者とは誰だろう」

 

「何れも、許せば良い(孔夫子の教えとはそういうものだ)」

 

「弱さから生まれた葛藤、私利私欲に負けただけだ、学問の道は彼ら(彼女ら)の為にある」

 

#三行詩

 

❖ 善の根源

 

「人の性は善である、そこは揺るがない、何故ならば人が人である限りそうなければならないからだ、これは必然だ」

 

「ならば悪とは何か、人の欲望から出し禍々しきは破滅へと向かう動物的本能に他ならない」

 

「孔夫子の教え、学問の道とは克己に違わない、世界とは自らであり、自らを正すことが世界を正すことに他ならない」

 

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

❖ シン・顔回

 

子曰、足食足兵、民信之矣、顔淵七

 

(子貢に政を問われ)孔夫子はいわれた、為政者とは民の食を十分に手当し、兵を徴兵して良く訓練し、民と絆、運命共同体として信頼を得るものだ。

 

「次項で、子貢は政での食・兵・信の優先度を問う、戦国時代ならではの問いであると思う。

以下は異論(個人的見解)である。

夫子は食・兵・信を、食は子貢、兵は子路、信は顔回に例えたとも解釈出来ないか。

窮地にあれば君子といえども兵を削り、次に食、そして最後まで共に残る人物とは信、やはり顔回なのだ。

兵・食・信とは順に学問の積み重ねかも知れない。

であればシン(信)・顔回とは世評の聖人+兵・食・信で凄腕の人物として成り立つ。

『子畏於匡、顏淵後、論語 先進22』のエピソードに、匡の地で夫子が命の危機に陷り、後から合流した顔回を気遣うシーンがある。

何故、顔回は後から追いついたのか、前後のやり取りから夫子を逃がすために囮になったとも推察出来る。

武侠子路すら及ばない兵・食・信の持ち主こそ顔回その人の真の姿かも知れない。

夫子自身、孤児として若年から倉庫番や牧畜等、下積みの苦労を重ねられつつ、学問の道を歩み聖人として大成された。

ずばぬけた長身で子路すら足元にも及ばない武心、武術を自在にする夫子が筋肉隆々であっても何ら不思議はない。

そして夫子が惚れ込んだ後継者とはシン・顔回なのだ。

ならば、聖人君子ではあるが病弱、か弱い通説の顔回像もあれば、文武両道、筋肉隆々の顔回像もあって良いのではないか」

 

論語

 

○木曜日の夜、森

 

❖ 秋の夜

 

「帰宅、夕食のちアマプラM、Linkin Parkを聴きながら暗やみの森を走っている」

 

「秋虫の鳴く声、足音が響く」

 

「雲に覆われし空と吹く秋風の匂い、見える街の灯りに浮かんだ家族の笑顔、二つ」

 

#三行詩

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○金曜日の朝、通勤

 

❖ 子貢の問い

 

子貢曰、必不得已而去、於斯三者、顔淵七

 

(政を尋ね、孔夫子より政とは兵・食・信との答えを得た)子貢はいう、やむを得ず除かねばならないとすれば、兵・食・信、どれですか。

 

「兵・食・信の一つを削らねばならぬ事態とは、亡国の非常時といえる、同時に突き詰め見れば儒家が行う政の眼目は何かを子貢は問うている」

 

論語

 

○金曜日の朝、乗り換え

 

❖ 早朝の風景

 

「眠い、節々が痛む、高き血圧を自覚しながら中央駅のホームに並んでいる」

 

「電話する茶髪若い人あり、彼の会話がこの場を占めている」

 

「なんてつまらない会話だろう、うん、おお、そうそう、皆、聴いている」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、自宅

 

❖ 広がる学び

 

「久方ぶりにアマプラV『葬送のフリーレン』(2周目)を観る」

 

「この歳でアニメ、否、アニメは面白い」

 

「そしてカントを読み、ニーチェを思う、世界は学びに満ちている」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、自宅

 

❖ 来たるべき未来

 

「人は滅ぶ、必然ではあるが少なくとも、今、明日、一週間後ではあるまい」

 

「地球の様々を眺めてきた月よ、君は何を思う」

 

「どちらが化け物なんだろう、母星を汚染する人か、或いは、人を駆逐する星の御業か」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、自宅

 

❖ 偽物の言葉

 

「啓蒙本にある『志を持って生きよ』との言葉に違和感を覚える、志、とは人から云われて生まれるものではない」

 

「志を持つ人とは、(その性質上)他人にそういうことは言わない、周りに及ぼすものだ」

 

「言葉が軽すぎる、志しとは一生をかけて自ら生み出し、その為に一生を捧げるものだ、あちこちに志祭りをされても困る」

 

#三行詩

 

○土曜日の夕方、マクド

 

❖ 偽善の宴

 

「世界に平和をと語るは尊い、しかし目の前のゴミは拾わない、私は崇高な人間なんだ、えっへん」

 

「大きなことを誇るより、今、すべきことは目の前にある」

 

「世の中に溢れ称賛される偽善者たち、ゴミ山の上で薄っぺらい笑みを浮かべて抱き合っている」

 

#三行詩

 

○土曜日の夜、自宅

 

❖ 次世代へ

 

「基本の徹底こそ恐ろしい、世の中、馬鹿正直に勝てる者などいるものか」

 

「戦え、愚直に、最後まで」

 

「そして、ここら辺りが私の限界らしい、孔夫子の笑顔が見えるのはご褒美としよう」

 

#三行詩

 

■つれづれ、論語、学問の道

反骨精神、反権力とは、立場変われば腐敗し、傲慢、尊大に変わる。

どの歴史書を紐解いても、その例に困ることはない。

富や権力とは、それらを如何に手に入れるか、目的に向かって進む限りは人を輝かせるものだ。

 

そして富と権力に限らない、目的に向かって突き進む限りは人は輝き続ける。

論語、という一冊の本は孔夫子の輝きに満ちている。

天下泰平、戦争のない、苦しむ民もいない、仁徳の世界を実現する為には、一人一人が仁を実践すべきと説く。

 

では、その先はどうなるのだろう。

史書の示す通り、腐敗が始まるのだろうか。

故に、論語 学而第一にこうある、

 

『子曰く、学びて時に之を倣う。』

 

「孔夫子はいわれた、人とは学問の道を歩むものだ、そして学び得たことを省みる、改めることにより、更に次の学びが始まるのだ。」

 

人は学び続ける限り、輝ける。

腐敗とは、学びを止める、自尊心の云うがままにプライドを膨らませることから始まる。

論語の解説書は数多あり、著者には大先生が連なる。

ほとんどが面白くない、興冷めするのは何故か、大先生が学びを止め、過去の栄光を振り返るばかりだからだ。

本来であれば、「老齢を向かえても尚学ぶ、長年論語を学んできて、更に次が見えている、学んで楽しい」で然るべきだ。

 

在野の漢学者として世を終えられた公田連太郎先生は論語の本を書かれなかった。

終生、学ぶ、省みる、改める、学ぶを繰り返された先生をして、

論語だけは決して講じない、とても教える自信がないから』との言葉を残された。

 

また、以下、公田連太郎先生の言葉だ。

『私の一生は失敗の一生でした。私は田舎者で、無器用で、世渡りの才とてなく、禅僧にもなれず、何の役にも立たず、八十余年、ただグズグズと生きてきただけです。われは可もなく不可もなし、そう言える偉い人になることだけを夢みて。しかし、それはかなわぬでしょう。そして間もなく終るでしょう』

腐敗など微塵も存在しない『学びて時に之を倣う』とは、このようなことではないか。

 

人は、学問の道を歩み続ける限りは輝くのだ。

権威や権力に阿る必要はない。

名声や富に心囚われて先に何が待ち受けようか。

書店に並ぶ、世間のいう権威の論語、或いは啓蒙本の類いは、反面教師的には良い学びにはなる。

何ごとも盲信してはいけない、自ら考える。

学ぶとは、自らの仁徳を広げる為にある。

これこそ孔夫子の教えであり、論語の眼目だ。