本文)
彼も一時なり、此も一時なり。
意訳)
あの時はあの時、この時はこの時。
本文)
君子の心、両般あり。一般は己を処するなり。
其の己を処するは貧賤の極り、艱難の甚だしきと
と云えども、ようよう是に処り、一も天を怨み人を尤むる所なし。
意訳)
君子の心には二つの面がある。
一つは、自らを収めること。
極貧の中にいようと、困難の中にいようと、
おだやかに己の心を収め、
天を怨むこともなく、人をとがめたりはしない。
本文)
一般は世を憂ふるなり。
其の世を憂ふるは、天下を視ること吾が家の如く、万民を視ること吾が子の如く、世乱れ民苦しむを視ては、食ひて味を甘ぜず、寝ねて席を安んぜざるに至たる。
意訳)
もう一つは、世の中を憂うこと。
天下を視ること我が家のように、万民を視ること我が子のように、世の中が乱れ、民が苦しめば、
何を食べても味がなく、寝ようとしても寝られない。
本文)
「彼一時、此も一時なり」と云ふは、此の両般なり。然れども両般、実は一般なり。
何となれば、己に在りて貧賤艱難に関ることなし。故に天下万民を視ること、吾が家·吾が子の如きに至る。
天下万民を視ること、吾が家·吾が子の如し。
故に貧賤艱難心にいることなきに至る。
意訳)
孟子がいわれた、「あの時はあの時、この時はこの時」とは、
君子の持つ二つの面、つまり、自らを収めることと、世の中を憂うこととを示すが、実はこの二つは、一つのことをいう。
極貧の中にいようと、困難の中にいようと、
おだやかに己の心を収めるからこそ、
天下を視ること我が家のように、万民を視ること我が子のように視れる。
天下を視ること我が家のように、万民を視ること我が子のようだからこそ、
極貧の中にいようと、困難の中にいようと、
おだやかに己の心を収める。
本文)
若し夫情を好み爵に牽かされ、涎を美利流すの徒、安ぞ天下万民を観るものあらんや。
故に曰く、両般実は一般なり。
意訳)
反対に、求めるがまま、地位や名誉にひかれ、
儲けに涎を流すような人が、どうして天下万民の面倒を見れようか。
故に、自らを収めることと、世の中を憂うこと、この二つは、一つのことをいう。
講孟箚記 第十三章
所感)
■現在の日本
吉田松陰先生が、現在の日本の政治を視られれば、なんと申されるであろうか。
求めるがまま、地位や名誉にひかれ、儲けに涎を流すような人たち、、、、、、。
自らを収めることと、世の中を憂うこと、この二つで一つを備えもつ政治家が、いつかは日本に現れることを願ってやまない。
■彼も一時、此れも一時
孟子、公孫丑章句下を出典とし、この言葉はことわざとなっている。
「時とともに、世の中のことは移り変わっていくものである。だから、あの時はあの時、今は今で、あの時と今とを単純に比べることはできないということ。また、栄枯盛衰も一時限りであるということ。」
以上がことわざの意味であるが、やや違って解釈されている。
吉田松陰先生の、天下万民を救う君子を述べられた解釈の方が本文の意に等しい。
松陰先生の「彼も一時、此れも一時」とは、揺るがなき道徳、学問の道は、あの時、この時、あれども、常に天下万民を救うことには変わらない、との強い意思を述べられた。
本文中での孟子も、天のもと、仁義の道徳は必ず民を救うものだが、今は今、いつかは必ず民を救う、との強い意思の言葉だ。
この意思こそ、現代で儒学を学ぶ私たちは受け継がなければならないのではないか。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。